◇県指定文化財
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【亀ヶ岡式壺形土器】
青森県重宝(考古資料)
所在地 三戸町
所有者 個人蔵
指  定 昭和31年5月14日

 大洞A式と呼ばれる、縄文時代晩期の壺形土器で、所有者の畑地から出土しました。
 土器の肩部および口縁部に施された文様は「工」という文字の連続に見えることから「工字文」と呼ばれます。
 表面は入念に木べらによって研磨され、光沢が見られます。
 縄文時代晩期はこういった緻密で工芸的な土器が数多く作られた時代ですが、この土器はその中でも大型の部類に属し、さらに極めて優秀な技術によって作成されています。
 残念ながら、底が抜けているため完形品ではありませんが、据えてしまうと完形品のように見えます。
【黄金橋青銅擬宝珠】
青森県重宝(史料)
所在地 三戸町
所有者 町立歴史民族資料館
指  定 昭和47年3月15日

 かつての黄金橋を飾っていた擬宝珠で、昭和41年、盛岡市中村与次郎氏より三戸町に寄贈されました。
 12代南部政行公が詠進した和歌が天皇の御心に叶い、恩賞として従四位下に叙され、「松風の硯」を賜り、朱の弓百張行列に加えることを許されました。また、加茂川の橋を模し、城下にかけることも許されたため、早速城下に擬宝珠で飾った都会風の橋をかけた。これが黄金橋の由来といわれています。
 慶長年間に盛岡城が築かれたとき、黄金橋の擬宝珠を鋳造しなおし、盛岡の中津川の橋に用いたと伝えられるので、これはそれに代わるものとして新しく鋳造されたものと考えられます。

本体には下の様に銘文が刻まれています。

三戸之町
 木金橋
元和九年癸亥
 五月吉日
    造おわんぬ※ (※は田の下に辛)
朝臣
   利直代

元和9年は1623年であり、そのころに作られたことを物語ります。
【檜山御前五輪塔】
青森県重宝(建造物)
所在地 三戸町同心町古間木平 長栄寺
所有者 同上

 檜山御前は26代南部信直公の次女で、文禄4年(1595)秋田実季の弟忠次郎英季に嫁いだ人物です。しかしながら後に不縁となり、三戸に帰って元和6年(1620)に没し、三戸大泉寺に葬られました。大泉寺はその後盛岡へ移ったのですが、その跡にに現在の長栄寺が建てられました。

 安山岩質の石質の石材が用いられ、上からそれぞれ
 「地」「水」「火」「風」「空」
をあらわす梵字が刻まれています。しかしながら戒名等は記されていないのが残念ですね。
 五輪塔が西を向いているのは、嫁ぎ先の秋田を向いて建てられたのだと言い伝えられています。
【南部利康公位牌】
青森県重宝(史料)
所在地 三戸町
所有者 三戸大神宮
指  定 昭和33年1月22日

 この位牌は27代利直公の4男、彦八郎利康公のものです。基部の連座連弁には緑色の着色が見られるが、全体に対する塗料は判然としません。
 要所に唐草文様を線刻した金具を打ち、正面には「廊巌薀公大禅定門霊位」と法号を刻み、両翼に上から五三桐、蓮華五三桐の飾り金具3対を付けて重厚に飾っています。金具はいずれも金鍍金されています。
 また、背面には「寛永八辛夫天」「十一月廿一日」と2行に忌日が刻まれています。
 利直公が寛永8年11月21日(1631)病死した愛子利康公を三光寺に葬り、霊屋を建立。また、三戸城下には葬礼を行った熊野林に熊野山廊巌寺正智院を創建し遺影を飾り、この位牌を安置しました。
【獅子頭一面】
所在地 三戸町梅内字村中
所有者 個人所蔵

 この獅子頭下顎内側には元和七年の朱漆名があり、二十七代南部利直公が自ら刻んで、梅内村の大蔵院へ賜ったと伝えられています。
 大蔵院はしばしば歌舞伎を利直公へ上覧し、信頼も厚かったため信頼も厚かったため、利直公にまつわる文化財が子孫であるこの家へ伝わっています。
【長栄寺正応碑】
所在地 三戸町大字同心町字古間木平
所有者 長栄寺
高さ 66.6cm 幅23.6cm 厚さ24.2cm
花崗岩製

 この碑の元の形状は明らかではないが、傘塔婆の石塔の塔身部分が残ったものと思われます。全体にわたり風化が激しく、表面に亀裂が入り、文字も明らかではありません。
 塔身の上部四面に梵字が刻まれており、東を向く「ウーン」の文字の下に、「正応二年十二月」「二十一日造立之」の記年が見えます。
 正応2年は鎌倉時代の1289年であり、県南地方唯一の鎌倉期の金石文です。
【阿弥陀如来立像】
所在地 三戸町同心町字諏訪内
所有者 悟真寺
高さ 77cm

 この阿弥陀如来立像の造像形式は中央様式であり、髪の部分や足元の作りから、平安時代藤原中期ごろの作と言われます。
【十一面観音坐像】
所在地 三戸町大字同心町字熊ノ林
所有者 観福寺
像 高  47cm
台 座  3cm

 この十一面観音坐像は、もとは南部町の長谷寺にあった仏像でしたが、昭和4年に当寺へ移されました。
 寄木造で胎内喉部に「王制覚天授辰弐丙年八月七日仏子幸慶」の墨銘が解体補修のときに見つかりました。
 天授2年(1376)は南朝長慶天皇時代の年号であり、かつ作者名のある仏像は県内でも珍しいとされています。
【唐馬の碑】
所在地 三戸町大字川守田字下比良
所有者 三戸町

 享保10年(1725)徳川八代将軍吉宗にオランダ人の献上したペルシャ馬が、南部藩に下付されました。藩は種馬として住谷野牧で放牧をしましたが、わずか9才でなくなり、墓印として松を植えました。その松は西へ向かって伸び、馬が母国を慕っているに違いないと、野馬別当の石井玉葉がこの碑を立てて篤く葬りました。
 この碑は寛保3年(1743)年に建立されたもので、日本馬産史上においても外国場に関する最古の資料とされています。
【千人塚】
所在地 三戸町大字斗内字寺牛
管理者 林泉寺

 天明の大飢饉の際、この地方でも多くの餓死者が出ました、また路傍や山野にも無数の死者が放置されていました。
 斗内の林泉寺の檀家頭であった栗谷川藤右衛門はこれを哀れみ、せめて首だけでも葬りたいと、林泉寺そばの丘に首塚を立てました、4つの塚に葬られた首の数は1千といわれ、千人塚と呼ばれるようになりました。
【駕籠立場の一里塚】
所在地 三戸町大字梅内字大反り私有地

 駕籠立場の一里塚は幕府が各街道に一里ごとに設置した、旅の距離の目安となる塚のひとつです。
 奥州街道に設置されたこの一里塚は、街道を挟んで二つ一対で設置されているのが特徴です。

 
【斗内稲荷神社本殿】
所在地 三戸町大字斗内字田屋ノ下
所有者 稲荷社官司 山崎茂穂

 斗内稲荷神社所在地一帯は、三戸御給人栗谷川氏の屋敷跡で、稲荷神社も栗谷川の屋敷として祀られたものといわれます。
 栗谷川氏は本姓を小笠原氏といい、田屋氏とも名乗りました。天明の飢饉で千人塚をつくった栗谷川氏です。
 稲荷神社の建立年代は明らかではありませんが、本殿に所蔵される棟札には、明和四年(1767)、寛政八年(1796)、天保一二年(1841)のものがあり、江戸時代半ばにはこの神社があったことがわかります。
 青森県の調査で、本殿は建築型厨子で、一間社流造とされています。
 本殿覆屋の中に納められている内御堂なので損害が少なく、田屋集落の氏神として大切にされています。
【斗内獅子舞】
保存会 斗内獅子舞保存会

 斗内獅子舞の起源は、江戸時代三戸地方山伏の総支配を行なっていた修験「斗内威徳院」のもとに、山伏神楽として創設されたと伝えられています。
 権現様(獅子頭)や面、法螺貝などはすべて古くから伝えられたもので、面には優れたものが多く見られます。

 現在は、神事のほか、町の祭りや行事でも、門付けとして舞が行われています。